おかげさまで
前回の更新から75日、物件探しと卒制に追われ、物件の確実な目処こそ付いていないものの探し方のノウハウは身につき、卒制も無事に審査が終わり明日から卒展が始まります。
おかげさまでネットの広告は物件情報だらけになり、ここ数日は忙しくてゆっくりしてる暇もなく卒展を迎えてしまった。
うちの大学は一応卒制に対する賞があるのだが、本当にいらない制度だと思う。比較とか競争社会の下層に生息していて、それが嫌で絵を描いているところもあるのに、結局はこういう評価と対峙しなきゃいけないのかと思う。
公募展もなければいいと思う。表現に少数の人間が優劣をつける意味がよくわからない。
人前で話す時はこんなこと言わないが、まあ賞を貰えなかった人間はこう考えるもんだ。
なけりゃいいのにと思ってるだけだから、「そんなこと言うな」とは言わないでほしい...
満員電車で人が多いときはあまり愉快ではないし、腹が立つこともある。でもそこで自分は腹を立てないはずなのではないか。余裕があるように見せかけて切羽詰まってるじゃないか。でも絵画では切羽詰まらなく楽しめる。そこの矛盾が絵画の軽快さや愉快さにつながっているように思う。
切羽詰まっているからこそ、それなりに遊戯感ある作品が出てくるのだ。そして作品が出来上がって、展示を迎えたときにはもう一度葛藤が襲う。切羽詰っちゃう。
アンネの日記の著者、アンネフランクは遠い場所の遠い歴史の人だ。だが親密に感じ取れるのはなぜだろう。いや一般的に言う、友達関係のような親密さとは違う。こういう感覚を持っている人は自分以外にもたくさんいると思う。幻肢痛みたいな作用が働いている気がする。それが自分の中に他人が入り込んでくる感覚なのかな〜。そう言っていいのかはわかんない。
そういえばさっき玉音放送をYouTubeで聞いた。75年前に放送され、国民が色んな思いで聞いた放送。75年後に23歳の俺がYouTubeで玉音放送を聞くギャップはなんなんだろう。起立も正座もせず、あぐらをかいてコーヒーを飲みながら聞いていた。そんなもんだと思う。
でもそこに親密さは感じない。すごい状況だったんだなと、ある種今と昔という時間上の断裂が激しい。アンネと玉音放送の違いは何か。大きな物語と小さな物語の違いだろうか。そんな気もする。個人から見た、個人から垣間見える同時代性と歴史、そこに個人としての自分が様々なものを重ね合わせ体感する。「追体験」というのではないと思うけど。
つまり、距離は誤解と乖離を生む。が、シリアスに物事を考えさせてくれるための要素でもある。
現在進行形で、不可逆的に時間が流れ歴史との距離を離している。ビッグバンが起きて宇宙がずっと膨張しているみたいに。
葛藤や矛盾も含めた、自分自身が生きているリアリティは確実に定着しているのだけど、それがなんなのだというのだろう。
今の時代、社会のありようやリアリティに対して思っていることは、言葉を使ったり、振り切って物議を醸す作品を作った方が手っ取り早いだろう。いわば表現主義的な要素選びのペインティングで、今の早さに対応することは不可能じゃないか。今スローメディアだからこそ成し得ることもある、と言うが、スローであることを受け入れて制作している人間がどれだけいるか。みんな焦っている気がする。今の時代の追っかけだ。
出てくるモチーフも社会的なものが多い。社会的なモチーフにカウンター的な牧歌的で画面を持たせるだけの記号をのほほんと使う例もよく見る。生き急いでペインティングで今の時流を掴んで、社会においてどういう効力を持つのだろう。社会における効力を意識していないのならそれでもいいが、しばしばペインティングでその効力を発揮しようとしている状況を見る。何を言ってるかよくわかってもらえなさそうだけど....散文だから...
この戯事も、時間が経ったらお前もわかるみたいな感じで宥められてしまうのかな〜。お前は未熟だからわかってね〜んだ的な。そういうのあるよね